新交響楽団第237回演奏会

昨日は、14時から15時50分まで東京芸術劇場コンサートホールにおいて新交響楽団の第237回演奏会を聞きました。

今回は、前半にシュトラウス2世の喜歌劇『こうもり』序曲とベートーヴェン交響曲第8番、後半にツェムリンスキーの交響詩『人魚姫』が演奏されました。指揮は寺岡清高でした。

寸評は以下の通りです。

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寺岡清高を指揮者に迎え、前半にシュトラウス2世の喜歌劇『こうもり』序曲とベートーヴェン交響曲第8番、後半にツェムリンスキーの交響詩『人魚姫』を取り上げた新交響楽団の第237回演奏会は、演奏会を開いたという実績以上には得るところのないものであった。

シュトラウス2世は冒頭から速度を全開とし、概して節回しを短くすることで疾走感を生み出したものの、例えば中間部で描かれる涙の下の微笑や悲劇の顔をした喜劇といった倒錯的な状況を表現しきれずに終わった。

また、ベートーヴェンは編成の大きさに比べてヴァイオリンの存在感が乏しかったためにオーケストラの均整が崩れがちであったし、大編成での演奏のために交響曲第8番が持つ室内楽的な性格が失われ、曲想が損なわれることになった。

さらに、後半のツェムリンスキーは第1楽章の水中の描写の箇所に妙味があったもののその他は譜面を粛然と読み進める演奏に留まり、起伏と陰影を欠き劇的な要素に乏しい内容であった。

もちろん、3曲とも自家用車や食堂の中で聞くとはなしに耳を傾けるには好適な、そつのない演奏であった。しかし、無難さと恬淡さが先行したことで、演奏を通して一人ひとりの奏者が作品の内奥に迫る機会が失われていたことも事実だ。

これは、前半と後半でポケットチーフの色を赤から薄紫に変え、細身の衣装を纏うことで洗練された雰囲気を示しながら、実際には演奏者に寄り添うのでも対峙するのでもなく、演奏される音楽の後をついてゆくだけの寺岡の手腕によるところが大きい。

それとともに、10年前であれば音楽の中に太い軸を作り出し、その軸に従って各楽器が表情豊かに演奏する力を備えていた新交響楽団が、現在ではそのような軸を形成する力を発揮しにくい状態にあることも、この日の演奏会から活気と創造性を奪ったといえるだろう。

創立50周年を境に緩やかな停滞に陥った日本フィルハーモニー交響楽団のように、昨年創立60周年を迎えた新交響楽団も沈滞の時期を迎えたのか、それとも今回の澱みが偶然の出来事であったのか、次回以降の演奏会が注目されるところである。

*新交響楽団第237回演奏会. 2017年4月23日(日), 14時から15時50分, 東京芸術劇場コンサートホール.

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