古戦場めぐり「慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い(山形県山形市)」

古戦場めぐり「慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い(山形県山形市)」

◎『慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い』

長谷堂城の戦い」は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いとほぼ同時期に発生し出羽国で行なわれた、上杉景勝(西軍)と最上義光伊達政宗(東軍)の戦いで、「東の関ヶ原」ともいわれます。別名は、慶長出羽合戦とも称されます。

慶長年間当時、越後を治めていた上杉景勝は、慶長2年(1597)に豊臣政権で豊臣氏五大老の一人に列せられ、慶長3年(1598)会津120万石に加増移封されます。これは、秀吉が巨大な勢力基盤を関東に持つ徳川家康の背後を牽制し、伊達政宗最上義光などの外様大名を監視する奥羽鎮護を考慮しての配置でした。秀吉逝去の報に景勝は大坂に登ります。翌年、景勝は会津に帰りますが、会津若松城も120万石の大名の居城としては小規模でした。そこで景勝は、慶長5年(1600)2月から筆頭家老で米沢城城主・直江兼続に命じ、会津若松城の西南・神指原に約8万人の人夫を割り当てて、新城の縄張りを行います。6月には島倉孫左衛門が景勝の命をうけ、神指城の築城を開始し、領内の要所には支城・砦の建設も開始されています。この景勝の領国経営は、国内を要塞化し謀叛を企てるものであるとして、五大老筆頭・徳川家康は景勝に申開きのための上洛を命じました。家老の直江兼続は家康に返信の書状を作りますが、これが有名な『直江状』です。その文面は、家康への痛烈な皮肉と挑発に満ちていました。6月、家

康は上杉家の振る舞いを謀反として公表し、五大老筆頭の名の下に上杉征伐を行います。この機に呼応して石田三成は専横著しい徳川家康を除こうと、豊臣恩顧の大名を集めて挙兵しました。

かくして、会津上杉は家康迎撃の備えを万端整えて、臨戦態勢に入っていました。7月25日、 家康は三成挙兵の報に接し、駐屯地の小山にて軍議を開きます。家康は会津上杉の討伐を中止し、軍勢の進路を大坂に向けることとします。その折、下野国宇都宮の結城氏や奥羽の諸将に会津の牽制を命じます。家康の命を受けた伊達政宗は、会津国境に軍勢を進め上杉を牽制し、出羽合戦の前哨戦が開始されます。「家康、西進す」の報は、会津討伐に出陣していた奥羽諸侯の行動を鈍らせます。特に上杉領の白石城を落としていた伊達政宗は、家康の作戦変更を知ると、上杉氏との積極的交戦を回避する行動にでます。これによって会津上杉領に本拠地山形城を近くする最上家は、一気に会津の軍勢の矢面に立つこととなります。景勝は、上方の戦況如何によって対応をせねばなりませんでした。この天下分け目の合戦(関ヶ原の戦い)は、大勢が長引くと予想されていた節がありました。

兼続は景勝に、小山を発った家康を追撃し背後を突くよう進言しますが、景勝は「上杉家の家名は敵の後背を突く事に在らず」と、その策を容れることはありませんでした。景勝は上方の動静を伺いつつ、背後で会津を牽制する最上義光の山形城を討つことにします。会津・庄内・置賜佐渡と孤立した領地を結ぶためにも、景勝は山形城攻略のために出陣の準備を始めます。「上杉軍来る」の情勢に、最上義光は上杉家に使者を送り、嫡子を人質として送る等の条件で和睦を申し込みます。しかし、和睦の水面下で義光は時間を稼ぎつつ、三成と家康の合戦の戦況を見極めて、好機あらば秋田実季(徳川方)と結び、上杉領の酒田城を攻める謀略を進めていました。直江兼続はその謀略を察知し、景勝は兼続に命じて和睦交渉の決裂として出羽侵攻を命じます。

9月8日、直江兼続は米沢と庄内の二方面に分けて出羽へ侵攻します。米沢からは兼続率いる2万5000人の大軍を萩野中山口へと進め、途中、掛入石(かくれいし)仲中山口に、篠井康信・横井旨俊ら4000人を別働隊として進軍させます。上杉総勢およそ3万。その動きに呼応して、勇猛で知られる横手城城主・小野寺義道も上杉景勝と同盟を結び、仇敵最上家の所領に侵攻します。三方から敵を受ける形となった、最上軍の総兵力はおよそ7000人あまり。しかも、畑谷城や長谷堂城、連なる支城・砦などに兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかいませんでした。12日、直江兼続最上義光の本拠地山形城への最短距離をとって、白鷹から侵攻します。最上領の最前線・畑谷城では、城将江口五兵衛・守備兵およそ500人が、上杉勢を相手に激戦を繰り広げます。畑谷城は低山に位置し城まわりもなだらかな地形であるため、精鋭で鳴る上杉勢およそ2万人を相手にできるはずはありません。義光は、城将江口五兵衛に対して帰還を命じますが、江口五兵衛はあえて籠城、敵軍の中に斬り込んでの玉砕を選びます。\xBE

綽禎Ľ蓮⌅Őʡ襪鳳膩海僕茲榛脳綫Ľ鬚眷砲辰董△Ľ茲\xBD1000人の死傷者をだしつつも、13日に畑谷城を陥落させます。

慶長5年(1600)9月15日。米沢を出陣して1週間で、直江兼続は山形城の支城・長谷堂城に迫ります。この日の早朝、霧が晴れた美濃関ヶ原では、石田三成徳川家康が日本の政権を争う天下分け目の大合戦を行っていました。最上方の決死の抵抗を退けて畑谷(畑屋)城を攻略した、直江山城守兼続率いる上杉勢本隊は、最上家の援軍をも撃破して気勢を上げました。兼続は庄内から進む与板衆・志駄義秀らが3000、掛入石(かくれいし)仲中山口へ向かった篠井康信・横井旨俊ら4000、置賜(おきたま)郡から小滝口・大瀬口・栃窪口に進む二手に分かれた別働隊と合流し、最上氏の本拠地山形城を包囲する計画を進めます。一方、小野寺義道も上杉勢の勝利の勢いに呼応するように、最上領の湯沢城を包囲して、仙北・庄内を争った仇敵最上氏の背後を扼します。会津上杉家は、この合戦を西軍の旗頭石田三成と共に戦い抜き、見事勝利しなければ、それはすなわち天下分け目の合戦での敗北をも意味します。上杉家も石田三成に連携して、まずは飛び地となった領国を、その接点となる山形城を攻略してまとめてから、伊達を牽制しつつ、豊臣方の佐竹・相\xC7

浪箸範ゟ腓靴董-⏁垉椶肪麁屬靴討い針未悗陵泙┠訃觸┨唎鯑い辰董~塙唎遼楜鮹牢愿譴悗凌噲兇鮃佑┐討い泙靴拭7鸞海蓮ヿⅺ丨砲茲辰読靆湘群爾帽譴𡌛礁臂綽礴箸量娠燭鯏劼韻董∪Гⓗ鵑任眈〕琛垢觀莪佞濃碍曽襪鯡椹悗靴泙后⦿脳絏箸任蓮⌅Őʡ襪任龍椋佞髪膩海稜塰漫⊂儋郢蔞粗擦両影眇噲兇覗藋海箸覆蠅泙后⦿脳緡里肋綽稹里剖瓦泙譴新舛任△襪燭瓠∈脳綉糎漚六碍曽襪鮹羶瓦箸靴神焼遒慇襍燭房蕕蠍任瓠\xA29月15日には、白石城に在陣していた犬猿の甥である伊達政宗に援軍を要請します。

掛入石仲中山口を進む上杉勢には、上山城に里見民部を、湯沢城奪還を狙う小野寺義道には武勇で名高い楯岡満茂ら数千の兵を割いて備え、狐越街道を北上する直江本隊には、それを阻む長谷堂城に重臣で最上四天王の一人・志村伊豆守光安と出羽の豪族で武名鳴り響く鮭延秀綱ら、軍勢5000余を入れました。義光は、上方に向かった徳川家康の勝利を一心に願い、乾坤一擲の戦いを期して籠城の態勢を整えます。長谷堂城は、山形城の北東約8?に位置し、山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側の城山と呼ばれる、小さな山(標高229m)の頂上に築城されていました。最上四十八館の一つで、山形から米沢〜白鷹〜置賜に抜ける狐越街道からの上杉勢に対する備えの要地でした。長谷堂城は築城時期が不明ですが、『伊達文書』には「1514年最上氏と戦って長谷堂を陥す」とあり、この頃には街道を押さえる要衝・要害の地として存在していたようで、別名の亀ヶ崎城とは、「亀の甲羅の如き堅城」という意味からきていたようです。長谷堂城の戦いの折は、籠城する志村伊豆守光安が城主でした。慶長当時は城に水堀や曲輪群を備え、さらには城周りに泥

の深い田や沼地も広がっており、自然と天然の要塞となっていました。水堀や曲輪群を備えてはいますが小城でもあり、長谷堂城合戦での堅固な守りは地形を生かした城としての効果が大きかったようです。

9月15日、兼続は長谷堂城のそばにある菅沢山に本陣を置き、大森山にも兵を展開させて長谷堂城を包囲しました。その数は、長谷堂城の籠城方をはるかに上回るおよそ2万余です。対する長谷堂城は、最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備していました。この日、兼続は長谷堂城に力攻めで総攻めを下知し、謙信以来の恐れを知らぬ上杉勢が長谷堂城に押し寄せました。900余の上杉勢が、西の大手口と北の八幡崎口に押し寄せます。最上軍も城の外に出て応戦し、ぬかるんだ深田で合戦が繰り広げられました。鉄砲の応酬と長槍での押し合いで一進一退が続き、初日の合戦は双方ともに引き上げます。翌16日、城方は200名の決死隊を率い、上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けます。これにより上杉勢は、同士討ちを起こすほどの大混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げました。この時の鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたといいます。

9月17日兼続は春日元忠に命じ、さらに城を激しく攻め立てました。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができません。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて、上杉軍を散々に撃ち付けました。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い、城兵を挑発しますが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされます。9月21日には、伊達政宗が派遣した留守政景隊3000の軍勢が、白石から笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣し、9月24日には、直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣します。また、最上義光も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣しました。ここにおいて一時戦況は膠着するものの、9月29日上杉勢は総攻撃を敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げました。

9月29日、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされました。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、前田利益(前田慶次郎)に諫められ、撤退を決断したとされます。翌30日最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転します。10月1日上杉軍が撤退を開始、最上伊達連合軍が追撃しました。富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど、大激戦となり両軍多くの死傷者を出しました。追撃軍を迎え撃つため、直江兼続は自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめ、10月3日荒砥に退却しました。前田利益や水原親憲などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、10月4日米沢城に帰還しました。この撤退戦は、後世まで語り草になりました。最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増し\xA4

良雜硑亮圈廚函△ĽĽい望淹燭靴燭箸いい泙后◀泙拭∈脳綫Ľ倭汗鐇類波森兇謀召検\xA210月1日には寒河江・白岩・左沢を回復すると、撤退から取り残された谷地城に籠る下秀久も、11日間の籠城のすえ降伏します。その後下秀久を先手、嫡男義康を総大将として庄内地方に進攻すると、尾浦城を攻め落としました。慶長6年(1601)3月、酒田東禅寺城を攻略し、十五里ヶ原の戦い及び奥州仕置で失った庄内地方全域を上杉氏から奪還しました。

この戦いは、「奥羽における東西合戦」といえます。最上軍は少ないながらも善戦したことにより、戦後家康はその功績を賞賛し、義光が切り取った庄内地方の領有権を認めるとともに、佐竹氏との領土交換により雄勝郡平鹿郡に替えて由利郡を与え、出羽山形藩は57万石の大藩となりました。伊達政宗は、直江兼続が米沢に帰還すると伊達・信夫に進攻し、福島城主本庄繁長と戦うものの補給線を断たれ失敗に終わります。戦後、南部領で一揆を扇動したことが露見し、家康の不信を招いたことによって、いわゆる「百万石のお墨付き」は反故にされ、自力で落とした白石城刈田郡2万石をそのまま追認されたに過ぎませんでした。敗れた上杉景勝は、庄内、会津などを没収され、米沢30万石のみを許されました。

○「長谷堂城跡」(山形市長谷堂)

「長谷堂(はせどう)城」は、山の形から「亀ヶ城」とも呼ばれ、山形城に居する最上氏にとって重要な支城の1つでした。特に、置賜地方にあった長井氏を滅ぼした伊達氏との争いの中で重要な防御拠点です。永正11年(1514)、伊達稙宗が当城を落としたとの記録が長谷堂城の初見です。歴史上、最も当城が注目されたのは慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いとほぼ同時期に発生した、西軍の上杉景勝が東軍の最上義光を侵攻した、慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)の頃です。

○「畑谷城跡」(山辺町畑谷)

「畑谷城」は山形城の支城の一つで、村山地方置賜地方の境界付近に位置していることから、山形城主・最上氏にとっては、置賜地方を領した伊達氏や上杉氏に備える最前線の城でした。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)において、上杉軍(総大将直江兼続)が荒砥(白鷹町)の狐越街道から、約2万余の軍をひきいて山形城を目指し攻めのぼってきたときの、最上軍と上杉軍の最初の激戦地であり、2日間の攻防の末、城主・江口五兵衛光清ほか500人が討ち取られて落城しました。城の麓にある長松寺には、江口光清の墓があります。