纏向遺跡と纏向古墳群について2

今日は、荒井由実ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽを聞いている。

纏向遺跡や纏向古墳群について考えようとするときに困惑するのは、発掘調査研究書、発掘担当者、個の研究者によって、用語や概念が微妙に異なり、その結果、統一したイメージを構成することが困難であることが多いことである。

そのこともあって論点は多岐に渡るのだが、幾つか気が付いた点について、論述していきたい。

今尾文昭の古墳文化の成立と社会青木書店以下今尾論文というによれば、奈良盆地の東南部の山麓に展開する古墳群は、山辺磯城古墳群で、北から、大和古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群に区分できる。

纏向古墳群について、今尾論文は以下のようにいう。

纏向古墳群は、山辺磯城古墳群を構成する一支群で、なかはさらに次の二小支群に区分でき、三輪山麓の扇状地北西の東田小支群と南東の箸中小支群に分かれる

東田小支群は纒向石塚古墳前方後円墳墳長九三メートル、纒向勝山古墳前方後円墳墳長一一五メートル、纒向東田大塚古墳前方後円墳墳長で一二メートル以上、纏向向矢塚古墳前方後円墳墳長九六メートルからなるが、各の主軸方向に連関性がみられない

これらの古墳の墳形は箸墓古墳前方後円墳墳長二八メートルへの発展過程にあるものとしてとらえられて纏向型前方後円墳として概念化されているが、たしかにこれらには型式上、先行する要素が認められるものの、規模の巨大化はもちろん、それ以外にも墳丘の段築化、前方部の対称化、後円部平面形の正円化をもって成立する箸墓古墳とは、ひとまず区別して考える必要があるので、東田小支群における多様性のある墳形は、纒向東田支群型前方後円墳として認識し、箸墓古墳ならびにその類型である纒向箸墓型前方後円墳とは識別してとらえるのが適当である。

なお、箸中支群には箸墓古墳の東方二五メートルにはホケノ山古墳前方後円墳墳長八メートルがある

東田支群の古墳の築造年代について、寺澤薫の王権と都市の形成史論吉川弘文館以下寺澤論文というは、以下のようにいう。

まず、出土土器についてである。

1導水遺構出土土器

石塚古墳前方部北東隅に作られていた導水遺構出土の土器群の様相庄内3式の可能性が築造時期を最も直接的に表徴している土器群とみることができる。

つまり、寺澤論文は、石塚古墳築造時に作られたと考えられる導水遺構から出土した土器は、庄内3世紀の土器であったというのである。

2周濠出土土器

石塚古墳の周濠底のレェルは東から西へ、そして北から南へと下がっており、南括れ部周濠から西側周濠にかけての最下層は黒色粘土層であるのに対して、周濠東縁部や北括れ部周濠の最下層は粗砂層ないしは黒褐色植物腐植層下部であるが、それぞれ最下層に木製品や土器が集中して投棄されている

最下層の堆積土は異なっていても、北括れ部周濠の最下層からは建築部材柱。垂木、板材などや農具鋤、鍬、横鎚など、祭祀的性格の考えられる木製品。赤色顔料の付着した削り屑などが土器とともに大量に、そして機能行為面としてプライマリーな状態で検出されており、括れ部の南北両側周濠への遺物の投棄という点では廃棄行為の同時性を示した資料というほかはない

西側周濠黒色粘上層出土の8と16はそれぞれ庄内形甕しかも口縁部形態からすると新相、庄内様式通有の有段口縁高坏であり、纒向西側周濠内出土第一次調査の図111上段には黒粘、砂2、灰砂などの層から出土した下層の土器が並載されているが、これらの資料は当然、植物腐植土層より下の黒色粘土層と粗砂層群の士器群とみるべきであり、そこには明らかな庄内形甕79や私のいう庄内影響甕6や布留形甕1011までもが含まれている

ここから、纏向石塚古墳の出土土器は、当然この一括性のなかで唯一様式論として矛盾なく解釈可能な布留0式古相と判断せざるをえない

つまり、寺澤論文は、古墳築造後に行われた儀礼に伴って周濠内に投棄された建築部材と共伴している土器は、布留0式土器であった、というのである。

次に、遺構の切り合い関係である。

石塚古墳の第九次纒向遺跡第一四四次調査は周濠の前方部の東外側ラインを確定させることが目的で実施されたが、二基の方形周溝墓と一基の古墳周濠石塚東古墳が発見された

石塚東古墳の墳形は不明だが周濠内出土の埴輪から五世紀後半代の築造であることが判明した

周溝内の出土土器からその築造が布留0式期と考えられている方形周溝墓2の周溝は北西辺六五が検出され、石塚古墳前方部周濠外側ラインに洽って収斂する一辺七八程度の方形周溝墓が復元できるので、方形周溝幕2が石塚古墳周濠に規制されて築造されたことは明らかである。

方形周溝墓1は一辺東辺約八の方形周溝墓で、甫辺は明らかに石塚古墳周濠に重複するが、周溝内の出土土器から庄内3式期と考えられている

方形周溝墓1の周溝方向が、後築された公算の大きい方形周溝墓2のように石塚古墳周濠外側ラインの形状に規制されておらず、一辺八で復元した場合、墳丘台状部じたいの多くの部分が石塚古墳周濠に重複してしまい、後築であった場合、開口状態にある石塚古墳周濠に周溝が開削されることになるので、石塚古墳築造以前の築造の可能性が高い

これらは石塚古墳の築造が庄内3式であるとの主張は決定的となる資料である

つまり、寺澤論文は、石塚古墳の周濠は、庄内3式期の土器が出土した隣接する方形周溝墓1を一部破壊して掘削され、布留0式期の土器が出土した隣接する方形周溝墓2は、石塚古墳の周濠に規制されて築造されている、というのである。

以上から、寺澤論文は、導水遺構出土の土器群の様相庄内3式の可能性が築造時期を最も直接的に表徴している土器群とみることができ、総合的な検討からも築造時期は庄内3式期と考えることが妥当といわざるをえないという。

寺澤編年によると、庄内0式の始まりは200年頃、布留0式の始まりは260頃とされているので、庄内0式から庄内3式までの4つの土器様式の期間が均等であると仮定すると、一様式15年となり、庄内3式は245年から260年となる。

古墳の築造は被葬者の生前から行われ、築造の作業は農閑期に行われたとすると、動員された人数にもよるが、石塚古墳の築造には3年間程度はかかった、と考えられる。

石塚古墳の周濠へ投棄された建築部材等は、石塚古墳の築造完成後すぐに墳丘上で行われた儀礼に使われたもので、儀礼終了直後に周濠内へ投棄されたものであった、と考えられる。

そうすると、庄内3式に古墳が築造され布留0式に墳丘上で儀礼が行われたといっても、その庄内3式は布留0式の直前となり、例えば、石塚古墳の築造期間を3年とすると、寺沢編年では257年となる。

古墳の築造年代は、墳丘上に供献された土器などから判断することが多いが、それは、物理的な古墳の築造よりも、古墳築造直後の儀礼を重視するからである。

つまり、そういう視点からすれば、石塚古墳は寺澤編年では布留0式の築造と言っても間違えではない。

この寺澤編年の布留0式は、一般的には纏向編年の纏向3式新と言われているが、寺澤編年と纏向編年では、編年の考え方土器の年代の考え方が、かなり異なっている。

この点について、寺澤論文は、以下のようにいう。

様式論としての布留0式と纒向3新式では決定的な認識の差があり、前者は布留形甕を認知し重要な形式要素としているのに対して、後者はその存在を認めず、布留式影響の庄内形や弥生形甕の概念についても後者は否定的である

ここから、実際に布留形あるいは影響甕の認識一つで、纒向3古式や纒向2式とされてきた様式認識までが布留0式になることも現実にありえた

また、甕形式の組成の点でも決定的に異なる

纒向3新式では弥生形は消長し、庄内形も典型的なものから布留形傾向甕纏向報告でいう甕が目立つようになるとされるが、布留0様式では、遺跡による比率の格差は大きいとはいえ弥生形、庄内形、布留形、そして各種影響甕が一定量共存すると考える。

また、加飾二重口縁壷や平底の広形壷の普遍的継続性などについてもその理解には越えがたい認識の差がある

石野氏は布留式土器は、布留型甕とともに小型土器セッ卜丸底壷鉢器台の出現を指標とするから、萌芽的布留型甕と小型器台はあるが、小型丸底壹と小型鉢を欠き、庄内型甕からたどれる非布留型の甕が甕の主流になる辻土壌4下層の資料は、布留式の様式範喘には入らないのだとする

纒向遺跡辻土坑4下層資料中に、木下正史氏と寺沢は布留形甕を認知するがゆえに布留式だといい、石野氏と関川氏は小型精製土器セットがそろわないがゆえに認定しないのである

寺澤論文によれば、寺澤編年では布留形甕を認知し重要な形式要素としているというのだが、この布留形甕に先行するという布留式影響の庄内形や弥生形甕は、纏向2式から纏向4式布留1式までの長期間にわたって出土している。

だから、実際に布留形あるいは影響甕の認識一つで、纒向3古式や纒向2式とされてきた様式認識までが布留0式になることになる。

ということは、寺澤編年では、逆に、布留1式とされてきた土器も布留0式と判断されることにもなる。

ここから、一ノ瀬和夫ほか編の古墳時代の考古学1古墳時代の枠組み同成社所収の西村歩の土師器の編年近畿の83の表1古墳時代初頭〜前期の編年区分案対比表で、布留0式が、庄内23式と重複して、纏向2式後半から纏向4式までとされているのである。

石野信博編の大和纏向遺跡学生社によれば、石塚古墳の導水遺構から庄内3式の土器とされている小型丸底鉢が出土しているが、寺澤露文の247の図94庄内3式における小型丸底鉢形式の成立に図示された、その小型丸底鉢は、今尾論文が布留1式の土器であるというホケノ山古墳出土の小型丸底鉢と同じ形をしており、布留1式の標準となる口縁部が発達した定型的な小型丸底鉢である。

庄内式期から布留式期になっても、すぐに庄内式土器が使われなくなったわけではなく、布留式期の間もかなりの期間庄内式土器が使われた。

そのなかで、布留式期の初めのうちは、少しずつ布留式土器が普及していくのだが、その少数の布留式土器の登場を指標として、布留式期を設定するのである。

だから、石塚古墳の周濠の導水遺構から出土した土器の多くが庄内式土器であったとしても、そこから布留式土器が出土していれば、それが少数であっても、土器編年としては布留式期となり、具体的には、初期の布留式期として布留1式期ということになる。

この事情は、石郭内から多数の庄内式土器が出土したが、そこから典型的な布留式土器である小型丸底鉢が一つ出土したことで、布留1式期の築造であるとされるホケノ山古墳と同様である。

ホケノ山古墳が布留1式期の築造とされるのであれば、石塚古墳も布留1式期の築造である。

以上から、寺澤論文が、庄内3式期に築造され、布留0式期に墳丘上で儀礼が行われたとする石塚古墳は、周濠内の導水遺構出土の小型丸底鉢から、布留1式期の築造であり、墳丘上の儀礼も、寺澤論文がいう布留0式が、布留1式であるとすれば、布留1式期に行われた、と考えられる。

なお、これまでの石塚古墳の発掘調査では、墳丘の断ち割り調査を実施したにもかかわらず埋葬施設は発見されていない。

ここから、石塚古墳は墳墓としての古墳ではないのではないか、という説がある。

大和岩雄の神社と古代王権祭祀白水社以下大和論文というの他田坐天照御魂神社の項によれば、以下のとおりである。

石塚古墳について発掘した結果、埋葬施設が出てこないので、森浩一は、古墳でなく、わりあい低い大きな円丘に短い祭壇のようなものがついた構築物とみて、中国で二至冬至夏至の祭祀を行なった、円丘方丘の円丘にあたるのではないかと推測しており置田雅昭も、石塚は祭壇ではないかとみている

石塚の発掘調査責任者の石野博信は、纒向遣跡の検討の座談会で、南側のくびれ部の調査で、径が二センチぐらいの、きれいな面取りをした柱が立ってるんです。濠の中に、それからころがって出てきているのもあって、何かそういう構築物がくびれの部分にあったわけです。そうすると古墳としては非常に異常なんで、祭の場の可能性があるんだろうかと思いましたと発言している

この、石塚古墳が古墳なのか祭壇なのかについては、後述する。